梅屋庄吉 2002年9月29日更新 ホーム歴史のページ ≫梅屋庄吉

梅屋庄吉伝

    このページは、「九州発−盟約ニテ成セル 梅屋庄吉伝」を引用しています。

    孫文と歩んだ30年

    中国革命を成功させた孫文と固い友情を結び、革命支援と日中和平に生涯をささげた長崎出身の梅屋庄吉。明治、大正、昭和を鮮やかに駆け抜けた男の一生をたどります。

    もくじ

東条英機に抹殺された梅屋庄吉

    「日活」の創設者・梅屋庄吉

    長崎出身の貿易商であった梅屋庄吉(1868〜1934年)は、中国革命をなし遂げた孫文の支援を行い、日中友好に生涯をささげた。

    梅屋庄吉の考えは、「日本と中国は、お互いに言いたいことを自由に話し合えば分かり合える」というものであった。 しかし、アジアの孤児を目指す当時の陸軍と意見が合わず、 陸軍の東条英機により、歴史上から抹殺された。

    「からゆきさん」に習った写真技術で財をなす

    長崎でコメ投機に失敗した梅屋庄吉は1893年(明治26年)、コロンブス島に来た。 日本人は「からゆきさん」のほかは、船乗りなどわずかな人々しかおらず、絶好の逃避行先だった。

    南国情緒あふれる島で、のんびりと過ごしただろう。次第に元気を取り戻し、中国や東南アジアの各地を転々とする。

    その途中で、庄吉は「中村トメ子」にめぐり会い、シンガポールに住んだ。 「中村トメ子」は、「からゆきさん」の一人であったようだ。 「中村トメ子」は、上海に渡り英国人と暮らしている間に写真技術を習った。それを庄吉に教えたと思われる。

    庄吉は後に日本映画界の風雲児と呼ばれる。トメ子との出会いが、写真を手がけるきっかけとなり、それが映画への出発点となった。

    「君は兵を 我は財を」

    孫文と梅屋庄吉が出会ったのは1895年。孫文の恩師、カントリー宣教師の引き合わせだった。庄吉27歳。孫文29歳の時だったという。 相照館2階の1室で語り合った。

    梅屋庄吉は、その後、写真から映画に転身、帰国して「日活」の前身となる日本活動写真株式会社を創立する。事業で得た巨額の利益は革命のために投じた。その総額は、現在の貨幣価値に直して「2兆円」ともいわれる。

孫文と梅屋庄吉

    孫文(1866-1925)

    国の革命家、政治家、中国国民党の創設者、指導者、中華民国の創始者として国父と 称された。

    広東の農村の貧しい農家に生まれ、12歳の時にハワイの長兄のもとへ行き、 教会学校で西欧の近代教育を受けた。その後洗礼を受け医学を学ぶ。この期間、後の革命 運動につながる様々な人物と出会い、影響を受ける。

    1892年、広州で医者として開業するが、社会変動の波の中、救国の思いにかられ、ついに革命を決意する。 秘密結社を組織し、投獄、亡命をたびたび経験しながらも活動を続け、総理にまで登りつめた。 その後も数度の革命を起こし、波瀾万丈の人生を送りながら近代中国の基礎を築き上げて いった。

    孫文(孫逸仙)と宋慶齢

    中国近代革命の父孫文と宋家三姉妹の次女・宋慶齢は、日活の創始者・梅田庄吉の支援 を受け、この地で結婚した。

    ちなみに宋嘉樹の三女は蒋介石夫人の宋美齢であり、挙式の 場所は孫文が寄寓していた梅屋庄吉邸(新宿区百人町2−23)であった。その時期は 1914年11月25日もしくは1915年10月とされて判然としない。

    孫文はその当時、頭山満や犬養毅などに多くの政治的支援を受けていた。現在この跡地は現在、スポーツ会館や学生の家及びJR大久保寮となっている。

    *車田譲治「国父孫文と梅屋庄吉」六興出版に拠る


日比谷公園内「松本楼」

明治36年6月日比谷公園開設と同時にオープン。 当時の最ファッションの場でもあり高村光太郎の”千恵子抄”にも1シーンとして登場しています。
また、大正デモクラシー以降は創始者梅屋庄吉が中国革命の父孫文を援助したなど歴史があり、ロビーには梅屋邸で宋慶齢が弾いていた国産第1号ピアノがあります。


戻る
[PR]話題の新車を無料プレゼント中:必ず当る抽選会!今すぐ応募で簡単GET