梅屋庄吉伝
このページは、「九州発−盟約ニテ成セル 梅屋庄吉伝」を引用しています。
孫文と歩んだ30年
中国革命を成功させた孫文と固い友情を結び、革命支援と日中和平に生涯をささげた長崎出身の梅屋庄吉。明治、大正、昭和を鮮やかに駆け抜けた男の一生をたどります。
もくじ
東条英機に抹殺された梅屋庄吉
「日活」の創設者・梅屋庄吉
長崎出身の貿易商であった梅屋庄吉(1868〜1934年)は、中国革命をなし遂げた孫文の支援を行い、日中友好に生涯をささげた。
梅屋庄吉の考えは、「日本と中国は、お互いに言いたいことを自由に話し合えば分かり合える」というものであった。
しかし、アジアの孤児を目指す当時の陸軍と意見が合わず、
陸軍の東条英機により、歴史上から抹殺された。
「からゆきさん」に習った写真技術で財をなす
長崎でコメ投機に失敗した梅屋庄吉は1893年(明治26年)、コロンブス島に来た。
日本人は「からゆきさん」のほかは、船乗りなどわずかな人々しかおらず、絶好の逃避行先だった。
南国情緒あふれる島で、のんびりと過ごしただろう。次第に元気を取り戻し、中国や東南アジアの各地を転々とする。
その途中で、庄吉は「中村トメ子」にめぐり会い、シンガポールに住んだ。
「中村トメ子」は、「からゆきさん」の一人であったようだ。
「中村トメ子」は、上海に渡り英国人と暮らしている間に写真技術を習った。それを庄吉に教えたと思われる。
庄吉は後に日本映画界の風雲児と呼ばれる。トメ子との出会いが、写真を手がけるきっかけとなり、それが映画への出発点となった。
「君は兵を 我は財を」
孫文と梅屋庄吉が出会ったのは1895年。孫文の恩師、カントリー宣教師の引き合わせだった。庄吉27歳。孫文29歳の時だったという。
相照館2階の1室で語り合った。
梅屋庄吉は、その後、写真から映画に転身、帰国して「日活」の前身となる日本活動写真株式会社を創立する。事業で得た巨額の利益は革命のために投じた。その総額は、現在の貨幣価値に直して「2兆円」ともいわれる。
孫文と梅屋庄吉
孫文(1866-1925)
国の革命家、政治家、中国国民党の創設者、指導者、中華民国の創始者として国父と
称された。
広東の農村の貧しい農家に生まれ、12歳の時にハワイの長兄のもとへ行き、
教会学校で西欧の近代教育を受けた。その後洗礼を受け医学を学ぶ。この期間、後の革命
運動につながる様々な人物と出会い、影響を受ける。
1892年、広州で医者として開業するが、社会変動の波の中、救国の思いにかられ、ついに革命を決意する。
秘密結社を組織し、投獄、亡命をたびたび経験しながらも活動を続け、総理にまで登りつめた。
その後も数度の革命を起こし、波瀾万丈の人生を送りながら近代中国の基礎を築き上げて
いった。
孫文(孫逸仙)と宋慶齢
中国近代革命の父孫文と宋家三姉妹の次女・宋慶齢は、日活の創始者・梅田庄吉の支援
を受け、この地で結婚した。
ちなみに宋嘉樹の三女は蒋介石夫人の宋美齢であり、挙式の
場所は孫文が寄寓していた梅屋庄吉邸(新宿区百人町2−23)であった。その時期は
1914年11月25日もしくは1915年10月とされて判然としない。
孫文はその当時、頭山満や犬養毅などに多くの政治的支援を受けていた。現在この跡地は現在、スポーツ会館や学生の家及びJR大久保寮となっている。
*車田譲治「国父孫文と梅屋庄吉」六興出版に拠る
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